幸福とは何か?を考えてみる
幸福とは一体なんだろう。幸福というのは、どういった状態のことを言うのだろう。心が幸福だなと感じた瞬間だけ幸福なのか。
だが、もし心が幸福と感じた時だけ幸福なのだとしたら、幸福とは一体なんと希少で儚いものであろうか。
または、物質的に満たされていて、不自由のない状態が幸福なのだろうか。
必要なもの、欲しいものが手に入れられて、物質的に恵まれていれば、満足感は得られるだろうが、それだけで幸せであるかは、関係ないような気がする。
身体的にだったり、何か困ったことがない状態は、確かに幸福なことではあるが、幸福感を感じるといえば、必ずそうとは言えない。
では、幸せは一体なんなのだろうか。
私の見解では、不幸を感じない状態が幸福ということなのではないだろうかと思う。
感情面でプラスに高揚して幸せを噛み締めている時ではなく、また、感情面でマイナス、つまり、辛いと感じている状態ではない。フラットな状態。ゼロの感覚が幸福ではないかと考える。
日々の生活に苦しみがなく生きていられるのが、幸福ではないか。ただ、実際にそんな生活ができるかといえば、誰もできないだろうが。
日々の生活に苦しみがなく生きていられるのが、幸福ではないか。ただ、実際にそんな生活ができるかといえば、誰もできないだろうが。
誰もが苦しみを抱えて生きている。そうであれば苦しみの量を減らせば、それだけ幸福に近づくことができる。
それならまず、苦しみの正体を知らなければならないと思う。
苦しみの正体とは何か?、それは、理想と現実のギャップが苦しいという人もいれば、現実を受け入れられずに苦しいという人もいる。
どちらの場合も、その苦しみを取り除く為には、することは一つである。
ありのままの自分を受け入れることである。物事に善悪はなく、善悪を判断する自身がいるだけとの認識を持てれば、苦痛を減らすことはできる。
つまり、良いも悪いも、幸も不幸も、自分の心次第。何でも、良い方に解釈する受け止めるポジティブ思考も良い人生スキルではあるが、何でもプラスに考えたり、感情を持っていくには骨が折れる。
それよりも良いのが、『ゼロ』の感覚。仏教で言う、『空』、良いも悪いもない、ありのままを受け入れる感覚を持つことが、幸せへの道ではないだろうか。
自分の事が嫌いで自己肯定感が低いなら、そんな自分を受け入れて、それでもいいんだと吹っ切れる。それも自分だと、そんな自分でもいいのだとありのままを受け入れれば、心が軽くなり、少なくとも苦しみは減る。それで良いのではないかと思う。
社会の常識や、他者の目、しがらみに縛られるなど、すべて取っ払って、世間や他者がどう言おうが、自身の思いをありのままに受け入れて、自分の為の自分の人生を生きられる人が、幸せな人だと私は思う。
だから、自分を偽らずに、あるがままの自分を受け入れて、自分の心に正直にいる。『あるがままを受け入れる感覚』を持つことが大事なのではないか。
その感覚を身につけるのには、瞑想はもっとも良い用法だ。
なぜなら、瞑想を通して、静かに気持ちを落ち着けて、精神を穏やかな状態にすることで、いまという感覚と共に、自身の中に想起する思考を手放すことで、いまの自分自身を受け入れる感覚を身につけることができるからだ。
いま何か苦しみを抱えている人、自分を受け入れることができない人は、無理に自己肯定するのではなく。瞑想の中で、自分を受け入れる訓練から初めてはどうだろうか。
全てのありがままを受け入れられる極地は、悟りで、お釈迦様の境地だが、自分を受け入れたり、苦しみは、自身が生み出しているに過ぎないと、あるがままに思えるようにはできるようになる。
それには、瞑想が助けになる。幸福を求めるなら、瞑想で心の在り方を訓練してはどうだろうか。