僕の「怒り」の正体は、母との価値観の違いだった



1. 冷蔵庫の開けっぱなしで、僕が怒る理由


母と二人で暮らしていると、些細なことで怒りが湧き上がることがある。

冷蔵庫の締め忘れ、棚の開けっぱなし、水の使い方──どれも些細なことなのに、なぜか僕の怒りの引き金になってしまう。

「どうしてこんな簡単なことができないんだろう?」

そう思うたびに、僕は母を責めてしまう。

だけど、よくよく観察してみると、その原因は母の「不注意」ではなく、偶然や、僕自身の見過ごしていたことだったというケースが多々あった。

冷蔵庫が開いていたのは、マヨネーズのボトルが閉まるのを邪魔していたから。

頭をぶつけるほど開けっぱなしになっていた棚も、僕が母に「この棚は使わないようにしてね」と伝えたら、問題は解決した。

この経験から、「誰が悪いか」ではなく**「何が起きたか」**という視点で物事を見る重要性に気づき始めた。



2. 怒りの奥にある「不安」と「価値観」


なぜ、僕は些細なことでこんなにも怒りを感じてしまうのだろう?

その根底には、母の認知の変化に対する**「不安」**があるのだと思う。

以前と比べて反応が遅かったり、理屈が通じなくなったりする。それが、僕にとっての「理解できないこと」として現れ、やがて「許せないこと」へと変わっていく。

僕は、秩序、合理性、倫理、効率といった価値観を重んじて生きてきた。

だからこそ、母の感覚的で習慣的な行動が、僕の中で「非合理」として映り、怒りを生んでしまうのだ。

特に、最近強く怒りを感じたのが、母の水の使い方だった。

食器を洗うとき、水流を最大にして使う。

母は「その方が早く洗える」と言うけれど、実際にはそうでもないし、綺麗にもなっていない。

僕には、それが「無駄」であり、「非道徳的」に思えた。

でも、母にとっては、強い水流は「ちゃんと洗えている」という身体的な安心感なのだ。

論理や効率ではなく、感覚で動いている。

僕の怒りは、資源を大切にしたいという僕自身の倫理観と、金銭的な持続性への配慮から来ている。

つまり、僕の怒りの正体は、母の行動そのものよりも、僕と母の価値観の大きな違いだったのだ。



3. 怒りを「敵」ではなく「教師」として扱う


この気づきを得てから、僕は怒りが湧いたときに、冷静に観察するように努めている。

怒りが湧いたとき、「冷却ワード」をつぶやくようにした。

「これは現象だ」「観察モードに切り替えよう」──

そうつぶやくことで、反射的な怒りが少し和らぐ。

そして、眉間に力が入ったり、呼吸が浅くなったりする怒りの予兆を見つけたら、すぐにその場を離れる。

「ちょっとお茶を淹れてくるね」と言って、空間を変えるだけでも効果がある。

母との対話も工夫した。

「お水って、地球でもすごく大切なものだから、ちょっと気になっちゃうんだ」と、**「価値を共有する言葉」**に置き換えてみる。

すると、衝突を避けられることが増えた。

怒りは、決して悪い感情ではない。

それは、僕が「世界をもっと美しく、合理的に、倫理的に生きたい」と強く願っていることの裏返しなのだ。

母との暮らしは、そんな僕自身の認知の構造と向き合うための、大切なフィールドなのかもしれない。



4. 読者へのひとこと・まとめ


もしあなたが、大切な家族との些細なことで、つい怒りを感じてしまうことがあるなら。

それはもしかしたら、あなた自身の価値観が、見えないところで傷ついているサインなのかもしれません。

「誰が悪いか」ではなく「何が起きたか」を見る。

そして、怒りを「敵」ではなく「自分自身の価値観を教えてくれる教師」として捉えてみてください。

不器用な僕だけど、この旅は、怒りを超えて、認識の深みへと至る旅だと信じて、これからも歩んでいきたいと思います。