自分が「弱者」という言葉に甘えていないか、問い直してみた話

 


1. 怒鳴り声に固まった、日曜日のスーパー


先日、母の買い物に付き添って、近所のスーパーへ行ったときのことだ。母は毎週、重い荷物を一度に運べるよう、まとめ買いをしている。その日は僕も休みだったので、できるだけ時間を合わせて付き添うようにしている。

いつものように会計を済ませていると、母が豆腐の種類を間違えていたことに気づいた。「絹豆腐に変えてもらえる?」と頼まれ、僕はすぐに売り場に走り、レジに戻った。

会計中だったので、母の真後ろにいた車椅子の男性の前を横切って、店員さんに豆腐を渡した、その瞬間――

突然、背後から「どけよ!」という怒鳴り声が響いた。

驚いて振り向くと、その男性は顔を真っ赤にして僕を睨みつけている。僕は「母と一緒です。割り込みではありません」と説明したけれど、彼は納得してくれない。やがて怒鳴り声はレジの店員さんにまで向けられ、結局、店員さんはトラブルを避けるために、彼の要求を飲み、先に会計を済ませてしまった。

誰もが利用する公共の場で、こんな風に理不尽な怒りを向けられて、どうしたらいいか分からなくなった経験はないだろうか? 僕はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。



2. 本当の“弱さ”は、声なき場所にある


この出来事をきっかけに、僕は深く考えさせられた。

確かに、その男性は高齢で車椅子を利用していた。けれど、誰に咎められるわけでもないのに、見ず知らずの人に怒鳴りつけるほど元気なのだ。

本当にサポートが必要な「弱者」とは、声を荒げることもなく、周囲に気を配りながら、それでも困難な環境を必死に生きている人ではないだろうか。

店員さんが彼の理不尽な要求に応じてしまったのも、気持ちはよくわかる。クレームを恐れ、トラブルを大きくしたくなかったのだろう。でも、そこで毅然とした対応がとれなかったことが、「声の大きい人のわがままが通る」という理不尽な構造を助長してしまうのではないか。

怒鳴れば要求が通る。そう信じてしまった人は、きっと別の場所でも同じようなことを繰り返す。そう思うと、なんだか悲しくなった。



3. 「甘え」と「弱さ」の境界線


この出来事のあと、レジ付近に突然泣き声が響いた。3歳くらいの女の子が、迷子になって母親を探していたのだ。

大きな声で泣きながら、店員さんに「ママがいないの」と必死に伝えるその姿に、さっきまでの重たい空気が少し和らぎ、周囲から自然と優しい笑みがこぼれた。

同じ「声の大きさ」でも、そこにあるのは、真っ直ぐな助けを求める弱さと、身勝手な振る舞いを正当化する横暴さ。与える印象はまるで違う。

高齢であること、体が不自由であること。それ自体は、誰にも責められるものではない。だが、それをまるで「免罪符」のように振りかざし、他人を攻撃したり、自分の非を認めなかったりする人がいるとしたら、それはとても悲しいことだ。

僕たちは、いつだって他人から「弱者」として見られる可能性を秘めている。歳をとることも、病気になることも、誰にでも起こりうることだから。だからこそ、自分の立場に甘えていないか、自分の弱さを振りかざしていないか、常に自分自身に問いかけ続けたいと思った。



4. 読者へのひとこと・まとめ


今回の出来事で、僕は少し辛い気持ちになりました。でも、その後に聞こえた小さな女の子の無邪気な声に、なんだか心が救われるような気がしたんです。

きっと、本当に助けを必要とする人や、純粋な心を持った人たちは、もっと静かに、それでも懸命に日々を生きているのかもしれない。

僕たちの社会は、理不尽な要求をする人ばかりではないはずだ。

声なき弱さに耳を傾け、お互いを尊重しあう。そんな当たり前の優しさを、僕自身も大切にしていきたいと、心からそう思った。

不器用な僕だけど、今日という一日を無駄にせず、少しずつでも人として成長していきたい。そんな風に、今は思っている。