通じない言葉——会話のズレと認知の不思議
はじめに:話しているのに、通じない
職場でも日常でも、人と会話をしていて「なんでこんなに通じないんだろう?」と感じることがよくあります。
こちらはちゃんと考えて、簡潔に、事実に基づいて話しているつもりなのに、返ってくる言葉はまるで別の話。
質問に対する答えになっていないことが多くて、正直、戸惑うし、時には苛立ちすら覚えます。
同じ日本語を話しているはずなのに、どうしてこうも話が噛み合わないのか。
これは私だけが感じていることなのか、それとももっと広くある現象なのか。
そんな疑問をずっと抱えてきました。
ある職場での出来事
以前、ある職場で備品の使い方について責任者に確認したことがありました。
その備品は複数人で使う収納バスケットのようなもので、個人所有にするのか、共有にするのかが曖昧だったんです。
個人所有にすると、「これは誰の?」「勝手に使われた」などのトラブルが起きやすくなるし、数が多いと探す手間も増える。
だから私は、「これは個人所有にすべきなのか、それとも共有にすべきなのか?」という、運用方針の確認をしたつもりでした。
でも返ってきたのは、「この備品を揃えるのにどれだけ苦労したか」という話。
まるで武勇伝のような語りで、私の問いの意図とはまったく違う方向に話が進んでしまいました。
結局、運用方針についての明確な答えは得られず、ただ「苦労したんだな」という感想だけが残りました。
このとき私は、「ああ、またか」と思いました。
こういうすれ違いは一度や二度ではなく、日常的に起こることだからです。
なぜ話が通じないのか?——認知のズレという壁
このような会話のズレは、単なる誤解ではなく、もっと根深いものだと思います。
人は言葉を使っているようでいて、実際には自分の感情や関心に基づいて反応していることが多い。
つまり、言葉そのものよりも、「自分が今話したいこと」「自分が感じたこと」に引っ張られてしまう。
私が合理的に問いを立てているつもりでも、相手はそれを「自分の努力を評価してほしい」「共感してほしい」という文脈で受け取ってしまう。
その結果、質問の答えではなく、感情的な語りが返ってくる。
これは、言語哲学でいう「言語ゲーム」のズレにも通じると思います。
同じ言葉を使っていても、参加しているゲームが違う——私は「問題解決のゲーム」をしているのに、相手は「共感と承認のゲーム」をしている。
だから、言葉がすれ違う。
雑談という儀式
職場では、毎日のように同じような雑談が繰り返されます。
天気の話、テレビの話、ちょっとした笑い話。
それが悪いとは思いません。むしろ、そういう雑談があることで場が和み、摩擦が減るという面もあるでしょう。
でも、私自身はそういう話題にあまり興味が持てず、反応も薄くなってしまいます。
「またこの話か」と思ってしまうこともあるし、無理に笑ったり共感したりすることができない。
それが原因で、「冷たい人」「ノリが悪い人」と思われることもあるかもしれません。
ただ、私にとって会話は「意味を伝えるもの」であって、「空気を読むための儀式」ではない。
だから、意味のない会話ばかりが続くと、どうしても違和感を覚えてしまうのです。
通じる言葉を求めて
それでも、通じる言葉を求めることは諦めたくないと思っています。
たとえすれ違いが多くても、言葉を通じて何かを共有できた瞬間には、深い喜びがある。
それは、単なる情報のやりとりではなく、認識の接続のような感覚です。
通じるためには、いくつかの工夫が必要だと感じています。
会話の目的を明示する
「これは確認のための話です」「事実ベースで話したいです」と、冒頭で意図を伝えることで、ズレを減らせる。文書化する
書き言葉は感情のノイズを減らし、論点を明確にする。口頭では伝わらなかったことが、文章ではすんなり通じることもある。雑談を観察対象として捉える
興味が持てない雑談も、「なぜこの話題が繰り返されるのか?」という視点で見ると、社会的な構造や人間の心理が見えてくる。
結び:言葉は不完全でも、問い続ける価値がある
哲学者ジャック・デリダは「言葉は常にズレる」と言いました。
完全に通じる言葉など存在せず、言葉は常に解釈され、歪められる。
それでも人は言葉を使い、通じようとする。
私が感じている「通じなさ」は、言葉の不完全性に対する違和感であり、同時に通じることへの希求でもあります。
それは孤独な営みかもしれませんが、意味を求める姿勢そのものが、社会の中で静かに価値を持つと信じています。
